岡田と知多木綿

現在の岡田は、1606年に日永郷にある奥村・中村・里村の3カ村を「岡田村」としたことが始まりです。当時の人口は700人、戸数146戸、石高689石、総面積4.06平方kmという小さな村でした。耕す土地が狭く、副業もあまりなかった岡田村の農家では、農作業の合間に副収入として機織りが行われていました。糸車を回して糸を紡ぎ、機を織る仕事は女性や子どもの重要な仕事でした。なお、初期の知多木綿は伊勢に送られ、「伊勢晒、松坂晒」として江戸に送られていました。

 享保年間(1716~1735)に、岡田村の「中島七右衛門」と「竹内源助」が江戸の木綿買継問屋株(鑑札)を取得して知多木綿の販路を拡げ、天明年間(1781~1789)に晒技術を導入したことで「知多晒」としての名を馳せます。江戸時代後期には知多木綿を年間70万反出荷したという記録が残っています。

明治維新後の近代化により動力織機が導入され、1896年に中七木綿合資会社が創業しました。翌年、岡田の「竹内虎王」が竹内式動力織機を開発し特許を取得、自社工場に導入するなど、岡田は知多木綿の生産地としてますます発展していきました。1902年には岡田郵便局が建築され、翌年に岡田は村から町になります。

1910年以降になると輸出向けに豊田式広幅織機が導入されはじめ、木綿工場が林立することになり、岡田には竹内木綿工場をはじめ最大で31もの工場がありました。最盛期には、知多半島で生産される木綿の70%を取り扱っており、3,000人もの女工さんが他県から働きに来て、芝居小屋「喜楽座」(建築1925年)などの娯楽施設もあり、賑わいを見せていました。

しかし、第二次世界大戦時下において織布工場は軍需工場に姿を変え、木綿の生産も停止を余儀なくされました。終戦後に岡田の復興を支えたのも木綿産業で、再び多くの織布工場が岡田地域に建ち並ぶことになりました。1955年には、岡田町・八幡町・旭町の3町が合併して知多町が誕生しましたが、「知多」の名の由来の一つとして知多木綿の産地であることが含まれており、戦前の最盛期を超える織布工場が建ち並ぶ程の活気にあふれていた岡田の様子が伺えます。

1965年以降になると、中国や東南アジアから安くて見栄えの良い製品が大量に輸入されるようになり、日本各地の木綿生産地と同様、岡田の木綿産業は衰退の一途をたどります。1970年、知多町から知多市に変わり、市の中心産業も木綿産業から臨海部の工業地帯へと移り変わっていきました。現在、知多市岡田で木綿工場を営んでいる会社は一社のみとなりましたが、かつての岡田の面影を残す木綿蔵や知多岡田簡易郵便局を中心に街並みが維持され、機織りの技術も受け継がれています。